男女二元制と異性愛主義
- 永易至文

- 3 日前
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セクシュアリティの要素の組み合わせは多様で、異性を好きになる人、同性を好きになる人といった性的指向の違いや、生まれた時の性別に違和感がない人、違和感を持つ人、どの性別にも当てはまらないと感じる人といった性自認の違いなど、一人ひとりの在り方はみな大切で、同じように尊重されるべきものです。

しかし、マイノリティの側(性的指向における非異性愛の人や、性自認におけるシスジェンダー以外の人)は、なぜそのことに負い目を感じたり、そのことを口外したりできないのでしょう。
日本は性的マイノリティに「寛容」で、海外の一部の国のような宗教タブーや刑罰もないと言われます。しかし、性的マイノリティであることを表明する人はけっして多くはありません。
それは、この社会が「男女二元制」----社会には男と女しかいない、体の性別と社会的性別(ジェンダー)が必ず一致し、それから外れる存在を認めないという見方と、「異性愛主義」----男は女を、女を男は愛するのが正常だ、それ以外はみなアブノーマルだ、という考え方で覆われているからではないでしょうか。
テレビドラマや映画をとっても、男と女が登場し、その男女が恋愛するラブストーリーが大前提であり、もし同性どうしの恋愛であれば、「禁断の恋」とか、逆に「男女を超えた普遍の愛」として描かれ、同性愛も一つのあたりまえの恋愛として描かれることは基本的にありません。また、一昔前までは、性的マイノリティがメディアに取り上げられるときは、「ホモネタ」として笑いの対象とされることが多かったです
この男女二元制と異性愛主義にもとづく「世間の常識」と「恥の感覚」が、性的マイノリティの生きづらさの根源にあります。



